01

丸山茂樹がプロに転向した時から

彼のプライベートカレンダーを撮影していた。

選手のプライベートカレンダーを担当するということは

その選手と深く付き合うこととなり、それは誇りでもあり責任でもあった。

2000年からの PGA tour 挑戦にも同行、公私ともに深く付き合った。

2009年から日本のツアーに戻り、最終戦の日本シリーズでは

久しぶりに勝利の美酒に酔った。そして迎えた2010年。

私もカレンダー撮影のため一時帰国し、丸山茂樹を4日間追っていた。

迎えた最終日7アンダーで単独トップスタート。

しかしスタートする前からコースは異常な歓声に包まれていた。

石川遼が快調にスコアーを伸ばし、前半7バーディの29。後半も勢いは止まらない。マルがハーフターンの時に声をかけてきた。

「タクさんもう遼に行ってあげてください」

その時のマルのなんとも言えない表情とともに握手をして別れた。

遼に追いついたのが16番ホール。怒涛の3連続バーディでその日「58」と云う、とんでもないスコアーで優勝。ゴルフ場は興奮が冷めやらない。

最終組のことなど誰も気にしていない雰囲気となった。

しかし遼はアテスト終了後もマルのホールアウトを待った。

疲れ切った表情で上がってきたマルは遼を見つけ、

「おめでとう!」

しかしその表情はなんとも言えないものだった。

表彰式に向かう遼、クラブハウスの坂道を昇るマル。

このタイトルだけは欲しかった。

それ以降、マルの優勝争いは見ることはできなかった。

(2009年 中日クラウンズ)

写真の1カットに秘める悲喜こもごもを伝えます。

※タイトルは三田村さんが考えてくれました。

02

宮里藍の人気がうねりを上げて迎えた2005年日本女子オープン。

まだ選手のホームページがなかった時代、

今週から写真を撮って欲しいと宮里藍事務所から依頼があった。

それは恐ろしいほどドンピシャで、

藍ちゃんは歴史的な優勝を目の前で見せてくれた。

メディアのインタビューを終えてもクラブハウス前にはサインを求めて多くのギャラリーが列をなしていた。

メディア担当が恐る恐る藍ちゃんに尋ねる。

藍ちゃんは力強く「全員します!」これは1時間では済まないな。

ゴルフを永らく取材していて、誰もが成し得なかったのは優勝ということよりも、”こういうこと” だったんじゃないかな。

辺りは既に真っ暗だ。懐中電灯を頼りにサインを続ける。

覚悟が伝わる「Ai」という文字がホームページを飾った。


04

03

今年行われる予定だったRoyal St George'sでの全英オープン。

ここで思い出すのが93年の戦い。

ニック・ファルドは87,90,92年と勝ち、この年も3日目終わってトップだった。

そして迎えた最終日、

グレッグが64のパーフェクトゴルフでファルドを逆転した。

1932年この同じ街のPrince's Golf Clubで行われた全英オープンでサラゼンは自身が開発したサンドウエッジを、初めて使用し優勝した。

当時サラゼンはマスターズのオナラリースタートでしか顔を見ることはなかった。

サラゼンを見つけ歩み寄るグレッグ。優勝セレモニーが均一化する中、きっとこのシーンは語り継がれるなと感じた。

観客のほとんどはファルドの優勝を期待していた。

地元イングランドの開催、ファルドはきっと複雑な思いでこのシーンを眺めていただろう。

そうして96年の大逆転のマスターズに繋がっていったのだ。

同世代ということでセベとグレッグが大好きだ。

共にボールは曲がるがそこからのリカバリーがとてつもなく上手くてそれが彼らの魅力でもあった。

そしてもう一つの共通点は普段会うとそうでもないが一度コースで会うと別人のように怖い。

その二人のプレーオフはまさに殴り合いのようなゲームだった。

88年NYウエストチェスター、勝負は距離のないパー4の10番。

試合では二人ともレイアップしていたがプレーオフとなるとどちらも迷わずドライバーを握った。

パーシモンの時代だが素振りからして気合が入っていた。

ギャラリーもめっちゃ興奮してる、というか殺気立ってる。

ロープ関係なく選手ギリギリまで押し寄せてくる。

メジャーでもないのにこの二人の負けず嫌い感半端ない。こんなシーン2度とないだろうな。

やっぱりスポーツはライバルが大事だ。

05

私と同じ1957年生まれにはメジャーチャンピオンが多い。

ペインもその一人だ。

僕がお邪魔していたトミーの家のあったBay Hillに、彼も住んでいた。

彼のファッションセンスはズバ抜けていた。

マスターズではボビー・ジョーンズに敬意を表し、彼が当時好んで着ていたスタイルでプレーした。

お洒落番長は靴にも時計にも拘って会場に現れた。

こんな選手もう出てこないかな。

3つ全てのメジャー優勝を撮れたのは、

今となっては僕の記憶の財産です。

06

カプルスはずっと

レイモンド・フロイドからメジャーの練習ラウンドの相手として指名された。

大先輩から声をかけられ、帝王学を目の当たりにして全てを教わる。

90年代に入りカプルスにスイッチがはいった。

ワールドランキング1位となり、念願のマスターズにも勝った。

今カプルスは、タイガーをメジャーの練習相手に選ぶ。

別に、今更タイガーに技術を教えるわけではない。

カプルスも、一時はドン底に落ちた時があった。

そんなことがあって、タイガーの事が気になって仕方がなかったのだ。

今回のタイガーの復活は、カプルスの優しさだったのかもしれない。


07

タイガーがプロデビューした頃は

まだフィルムで撮影していて

タイガースラムあたりまではそうだった。

フィルムと云うのは36枚が最大で、

スポーツ撮影ではフィルム交換のタイミングがとてもセンスがいった。

タイガーの出現で

あのガッツポーズを撮りたいが

結構ワンポーズが長いので一本のフィルムに収めるのは難しかった。

しかしデジタルカメラになり、フィルム交換の心配がなくなり

あの一連の動作が撮りやすくなった。

だからと言って技術的に簡単なわけではない。

時には7、8メートルもピョンピョン跳ねながら動き回るのだから。

あの一瞬の興奮、また味わってみたい。

08

全英オープンのチャンピオンになる事はプロゴルファーの夢だが、

その中でもSt Andrewsでの全英オープンに勝つ事は格別な思いがある。

ニック・ファルドは87年に続き、

90年念願のSt Andrewsでの全英オープン優勝。

家族と共に月曜日ロンドンへ向かった。

当時まだプライベートジェットも普及していない時代で

そのフライトにファルドファミリーは

ギリギリのタイミングで機内に飛び込んできた。

既に他の乗客は座っていてファルドは大事そうに木箱を抱えていた。

突然、機内放送があり

機長はファルドの優勝を称えるアナウンスを始めた。

するとファルドは、木箱からクラレットジャグを取り出し声援に応えた。

突然の事で、前方に座っていた僕はカメラを取り出す事が出来なかった。

ヒースロー空港到着後、先に降りカメラを構えファルドを待った。

この木箱がゴルファーにとってどれだけの宝物か。

気難しいファルドがカメラ構える僕に微笑んだ。

09

それは悲劇が起こる2年前だった。

その当時まだ欧州ツアーが今ほど盛んでない時に

イギリスやスペインではない選手を特集しようと

フランス人のジャンバンデベルデにスポットライトを当てた。

早速ジャンの住んでる南仏の自宅を訪ねた。

彼は日本から来た取材者を快く迎えてくれ、一緒にゴルフまでした。

フランスでは全くと言っていいほどゴルフの人気はなかったし、

彼の事を知っている人もいなかった。

そうして迎えた99年の全英オープン。

雨の降りしきる中、2位と3打差つけジャンは18番を戦っていた。

ダボでも優勝の中ジャンは私の目の前で靴を脱ぎ川の中に入っていった。

もし許されるなら大声で叫びたかった。

「ジャンなにやってるんだ、目を覚ますんだ!」

あの南仏で会ったジャンが

まさか全英オープンの悲劇のヒーローになろうとは。

10

10数年前に出版され、本に使われたワンカット。

その写真をどうしても飾りたいと依頼を受けた。

その写真は95年ダンヒルカップでSt Andrewsに行った時だった。

ダンヒルのオーナーをインタビューした時、

別れ際ダンヒルさんが

「明日良かったら私のプライベートキャッスルに食事にでもどうぞ」

と誘いを受けた。

翌日ホテル近くにオーナーのヘリが待っていた。

St Andrews上空を旋回後、ネス湖近くのお城までの予期せぬ旅が始まった。

お城の庭にヘリが舞い降り、城主がお出迎えしてくれた。

まず、すぐそばのダンヒルの蒸留所に案内され、

樽からショットグラスにスコッチを注いでくれた。

「これは100年もののスコッチです」

そして城内には食事の用意がされていた。

近くで獲れたサーモンがお皿に輝いていた。

非日常の連続に、頬っぺたを抓りたい気分。

あの夢の旅の記憶が、

今またホテルのロビーに舞い降りてきた。

11

1997年地元スペインValderramaでのライダーカップではセベはキャプテンとして重責を担っていた。

その緊張は周りにも伝わっていた。

パーシモンからメタルへの変化に苦労したセベ。

やり残した事はライダーカップのキャプテンであり、地元での勝利であった。

この年はタイガーにとってライダーカップ初参戦。

異常な盛り上がりをしていた。

最終日、アメリカの激しい追い上げだったが最終マッチ。

モンティが5mのパーパットを決めて引き分けに持ち込み辛うじて優勝。

セベの笑顔がはち切れた。18番はお祭り騒ぎ。

グチャグチャになる中、セベと目と目があった。

「Taku !!」

持っていたシャンパンを僕に向けた時のあの笑顔。

同じ歳でアメリカツアーを転戦していた僕をいつも気にかけてくれた。

セベありがとう。

最高の1日だったぜ。

12

ゴルフの世界では

タイガーの出現の前と後が大きな時代の変化だったかもしれない。

それは賞金額が大きく変わっただけではなく、

ギャラリーの数、メディアの数など大きく規模が膨れ上がった。

そうしてもうひとつ、

空気感が変わったのも大きい。

いろいろな規制が増え、あらゆるセキュリティーも厳しくなった。

当時スーパースターだったノーマンと街で出逢った。

彼はハーレーに乗りトーナメントの通勤を楽しんでいた。

レンタカーを降り一枚イイかなって、

あーこんな笑顔

試合会場でも撮りたかったな。

13

最初の一歩に出会えた幸運。

それは偶然でしかあり得ない。

フィル・ミケルソンにとって最初のメジャーは

1990年全米オープンMedinahだった。

当時アマチュアで前年史上最高スコアーで全米学生に優勝したばかり。

翌年にはアマながらPGAtourに優勝もした。

そこからはなかなか結果が出なく03年にはゴルフを諦め、

大リーグ3Aのクウォリファイも受けた。

しかし人生とはわからないものだ。

04年念願のマスターズ初優勝。その後順風満帆でメジャー5勝。

残す目標は、全米オープンを勝ってキャリア・グランドスラム。

全米オープンは過去6回2位と、あと一歩が届かない。

ワトソンも全米プロが勝てなかったが

シニア入り後最初の全米プロシニアで優勝。

あの涙のシーンは、心にこびりついている。

フィルもいつか4つ全て揃う瞬間をこの手で撮りたいものだ。

14

2000年以降

PGAtourの選手の間で、急速にプライベートジェットが広まった。

それは01年のテロの影響も大きかった。

毎週移動が激しいツアー選手にとって

セキュリティーの煩雑さは大変なストレスだった。

トーナメント近くの空港には、一般とは別の場所に何機ものPJが並んだ。

ここで見せる選手の姿は、

普段見る事が出来ないような無邪気な素の姿だった。

マルから卓さん乗っていく?

って、それはちょっと近所に買い物に行くような。

アメリカって凄いわ。

15

オリンピックの100m走やサッカーのゴール裏などでは

リモコンカメラでの撮影が当たり前だが

ゴルフではなかなか許可がおりなかった。

1999年、雨降りしきる中、朝からクラブハウスの屋根に登り

最終シーンを想定しながらカメラを取り付けた。

パインハーストでの全米オープンは意外にもこの年が初めて。

3日目終わってトップがペイン・スチュアート。

一打差の2位がフィルで3位タイにタイガーだった。

最終シーンを想定しただけでもドキドキしてくる。

僕は優勝者を18番グリーン下から望遠レンズで捉え、

リモコンで上から全体を撮るという設定だ。

まさかこの写真が歴史的な1枚になるとは、、、

この年の10月、ペインの悲報を聞いた時、

いろいろなシーンが頭の中を駆け巡った。

雨の中、屋根によじ登った日を忘れないように。

16

腰痛の手術後から

87年外国人として初の賞金女王になった。

岡本綾子は当時全てのメジャーで優勝争いしている状態だった。

全米女子プロを終え、のんびり食事していると

「宮本くん明日からどこ?」

「僕は男子のメモリアル。岡本さんは?」

「私は日本」

「今年メモリアルの殿堂にミッキー・ライトが選ばれた」

という話をすると突然、岡本綾子の目が輝き始めた。

ミッキー・ライトとは伝説の女子プロで

通算82勝メジャー13勝で女性ベン・ホーガンと言われた

美しいスウィングの選手。

「私もミッキーに会いたい」

そこからが大変な事態になった。

その当時岡本さんのスケジュールを変更することは

並大抵な話ではなかった。

翌日空港で会った岡本さんはなんだかウキウキしていた。

突然のスケジュール変更こそ旅の醍醐味だ。

17

ディフェンディングチャンピオンとして訪れた

南アフリカでの2006 Women’s World Cup。

試合が終わって疲れているにも関わらずちょっと聞いてみた。

「藍ちゃん明日サファリパーク行かない?」

去年は優勝でそれどころではなかったらしい。

せっかく南アフリカまで来て見ない手はない。

明日ちょっと早いけど5時。

でないと動物が出てこないらしい。

一瞬躊躇した藍ちゃん。

翌朝ロビーで待ち合わせるとまだ眠そうな藍ちゃんが立っていた。

ジープに乗り込み早速出発。

昼間は相当暑いが、早朝はキリッと寒かった。

鬱蒼な草原を進むと

腹を空かしたライオンとかがお出ましになった。

少しずつテンションが上がる。その時だった。

「虹だぁ!」

藍ちゃんが叫んだ。

最高の笑顔がフレームの中で弾けた。

無理言って良かった。

ありがとね、藍ちゃん。

18

突然な電話が日本から舞い込んだ。

メモリアルでジャンボさんを1週間アテンドして欲しい。

当時、ジャンボさんのJ’sの仕事やカレンダーの撮影をやっていたがアテンドはしたことがなかった。

NOという答えはなく、仕方なくコロンバス空港に迎えに行った。

ジャンボさんが到着、

「今週僕が、、、」と言い出したところ

お前はカメラマンだろうと若干不機嫌になった。

ホテルに向かう車の中

「メシとかも頼むぞ、ワインは大丈夫か」

「大丈夫です、この街はよく知ってるのでお任せください」

試合が始まり、初日が首位に1打差の3位タイ。

いきなりインタビュールームに呼ばれる事態に。

3日目スコアーを崩しヤバい空気が流れた。

このままダメかと思った最終日、

見事なプレーで上がりバーディーバーディーの67で4位タイ。

ジャンボさんの米ツアー最高順位となった。

翌日ホテルには大会が気を利かせ空港まで車を用意してくれた。

「佐野木お前はそれに乗れ、俺は宮本の車で行く」

後部座席に座る車の中ジャンボさんが突然、

「宮本今週はありがとうナ」

この時のファイルを見ると極端に写真は少ないが

思い出は強烈だった。

19

オーガスタでの最高のビューポイントは

アーメンコーナーの一番奥の角。

そこは11番12番13番を同じ場所から観られる絶景の場所。

もちろんそこをキープするには並大抵の苦労ではない。

僕がアーメンコーナーのカメラマンポジションに座るや

後ろが騒がしくなった。

振り返ると、男の人が彼女にプロポーズする瞬間だった。

周りにいた見知らぬギャラリーもやんやの喝采だ。

ゴルフ好きの彼女のために最高の場所を選んだらしい。

その場にいたみんなが幸せな気持ちになれた。

帰り際彼が名刺を差し出した。

「その写真是非欲しいです」

きっと今頃幸せなリビングにこの写真が飾られてるだろう。

アマチュア優勝、プロデビュー、PGAtour挑戦、

そしてマスターズ初出場。

一連の流れは若者らしく疾走するような駆け抜ける勢いだった。

2009年のデビュー戦は一種異様な雰囲気で世界の注目の的になった。

あの1番ティーでの「Ryo Ishikawa」のコールが

耳にこびり付いて離れない。

堂々としたプレーだったが尽くオーガスタの罠に嵌っていった。

撮っているおじさんの私も胸が張り裂けそうだった。

17歳6ヶ月、結果は73位タイで予選落ち。

ホールアウト後、辺りを気にする事なく泣き崩れた。

またマスターズでプレーする

石川遼を撮ってみたい。

20

photographs by Taku Miyamoto